半島を知っていますか

■「半島」と聞いて、何を思い浮かべますか?

海に突き出た土地、海に向かってすっと伸びた崖状の海岸線、なんとなくそんなイメージですよね。私たちの住む日本列島は、大小無数の半島に囲まれています。ですが、「半島」のイメージは、なんだかうっすら曖昧模糊としているように感じます。

著名な半島でいうと、能登半島、伊豆半島、房総半島、知床半島、紀伊半島…。紀伊半島の中には志摩半島があり、さらに志摩半島をなすリアス式海岸のひとつひとつの凹凸にも、半島の名前がついているものもあります。一方で、紀伊半島は、どこまでが半島でどこからが半島でないといえるのか。紀伊半島の内側にある海に面していない地域は、果たして半島と呼べるのか。北海道最北端の海に突き出した場所は宗谷半島のはずなのに、宗谷〝岬〟として認知されている。日本最大の湖にして滋賀県民にとっての海である琵琶湖には、烏丸半島と呼ばれる突起があるが、これも半島と言えるのか。海に囲まれているから海がキレイで、漁業がさかんで、緑の森や里山があって、半農半漁の暮らしが営まれているのかな…エトセトラ、エトセトラ。

ここも、あそこも、全部半島     /     半島の中に半島、湖の中に半島

■半島とは、今日の日本の中でどのような所でしょうか?

半島の形や位置のイメージはつけども、半島と私たちの暮らしの関わりは、どのようなものがあるでしょうか。現在の社会・経済・政治、文化・産業、歴史、環境・資源など、暮らしと不可分な視点から、半島がもたらす影響や価値について考えたことがあるでしょうか。

半島暮らし学会の活動を通じて、半島がもつ、あるいは、半島を構成する多様で多面的な要素に光をあて、掘り下げていきたいと考えています。

日本の中での半島の変遷

半島が日本の中で担ってきた役割、位置づけについて、ほんの少しだけさらってみます。

■半島は、かつて玄関口だった

まず、古代、大陸から日本にはさまざまな文化、人材、技術、物資が渡ってきた時代には、半島は日本の玄関口でした。外国との交易の要衝として、最新の情報が外からもたらされ栄えていました。もちろん、日本から人や物が出て行く際の玄関口も半島でした。文字通り、流行の最先端だったのです。このような時代は、江戸幕府が鎖国をしてもなお、長く続きました。江戸時代の終わりにアメリカから黒船が来航し、最初に上陸したのは静岡県伊豆半島の南端、下田港でした。

一方、日本国内の物資輸送の中心は舟運でした。江戸時代に入り主要な街道や宿場町が整備され、人の往来はもっぱら陸路でしたが、大量の物資を江戸、京都、大坂に輸送するための舟運が発達しました。とくに、日本海側では大坂を起点とする北国廻船が発達し、各地の特産品、名産品を積んで長い航海をしました。航路の経由地、積み出し港には、数多くの半島がありますが、海外との交易同様に、各港には物資や財、人が集まり、たいへんに栄えたといいます。かつて寄港地であった半島各地には、その当時の有形無形の名残が残っています。この北前船が果たした役割は、日本の商流・物流だけでなく、各地の文化や技術の伝播・発展に大きく影響しています。このことは、また別の機会に紐解いていきます。

さらに、太平洋側では、南方から北上する黒潮海流に乗って、漁民たちが魚を追って半島づたいに北上してきました。彼らは、たどり着いた地で家族をつくり、食文化や漁法、漁撈文化を新しい土地にもたらしました。白浜、勝浦といった地名は、高知県、紀伊半島(和歌山県)、伊豆半島(静岡県)、房総半島(千葉県)にみられますが、こうした伝播の歴史を物語っているといえます。

このように、海で海外、国内の各地がつながっていた時代は、半島は玄関であり、ターミナル駅のような場所だったのです。

■産業革命が半島に変化をもたらした

明治期に入り、日本は西欧諸国にならって近代化の道を突き進んでいきます。半島にとって大きく影響したのは、大都市を中心に都市整備やインフラ整備を推し進めたこと、重工業を中心とした産業経済の振興を進めたことです。これにより、道路や鉄道網が発達し、海づたいの交易は縮小していきました。北前船も明治30年ころに終わりを迎えました。また、産業の近代化・工業化は、たくさんの用地、用水と労働力を確保しやすい場所、石炭や鉱石、鉱物を産出する場所、外国との貿易に開かれた港に繁栄をもたらしました。大量に、効率的に、労働集約的に生産・出荷ができる場所、地域が発展し、インフラが整備されていきました。

この間、半島でも鉄道が整備された歴史があります。国策として敷設されたものもあれば、地域の人が私財を出しあって整備したものもあります。さらに、現在も当時のまま走っているものもあれば、整備途中で財源が続かなくなり高架だけが残っているものなど、さまざまです。都市から離れたところに位置する半島ですが、時代の変化の中で近代化を進めてきた当時の勢いを感じます。

■都市と地方の格差の中で

その後、2回の世界大戦を経て、日本の産業経済は復興していきました。大規模な重工業が基盤を支えつつ、さらに車や電機などものづくり産業が発達し、日本各地の臨海部に工業地帯が形成されていきました。これらの工業地帯には、人や物資をより効率的にスピーディーに輸送できるよう、港や高速交通網が整備され、その周辺には、たくさんの人が移り住み、商業が発達しました。このようにして、都市と地方のさまざまな格差が生まれていきました。

戦後が日本が大規模産業による経済発展と国土開発をモーレツに進める中で、半島はどのような存在だったのでしょうか。

高度成長期のあと、当時の総理大臣だった田中角栄は都市と地方の不均衡を危惧し、「日本列島改造論」を唱えました。東京への一極集中を緩和し、格差是正を果たそうというものでした(ちなみに、1969年に発表された「第二次全国総合開発計画」は、〝国土利用の偏在を是正し、過密過疎、地域格差を解消〟を目的に策定されており、地域間格差は大きな課題となっていたことがわかります。そして、「21世紀のグランドデザイン」に至るまで、「国土の均衡ある発展」「多極分散型国土」というふうに、都市・地方格差の是正は国土開発のきわめて重要な課題であり続けました)。

図は「国土開発幹線自動車道法」にもとづく高速道路網の整備状況の推移を示したものです。

上から、「日本列島改造論」が上梓された1972年、半島振興法が制定された1985年、現在2018年となっています。都市と地方の格差是正を図るという目的のもとで国土開発が進められてきましたが、いまだ半島では高速道路の線が少ないのが見てとれます。

なぜ、半島は国土開発が都市部ほどに進んでいないのか、そのことはあらためて別の機会に書きたいと思っていますが、これは明治から昭和までの時代において、半島が担ってきた役割を端的に表現しているのではないかと感じています。

「国土開発幹線自動車道法」にもとづく高速道路網の整備状況

日本列島改造論が上梓された1972年

半島振興法が制定された1985年

2018年

半島を未来志向で考えたい

今の日本の社会では、半島のイメージ、役割は、影が薄くなっているかもしれません。

「半島」という言葉を見てみると、〝半分、島〟あるいは〝半ば島〟と読み取れます。海に三方を取り囲まれているけれども、四方を海に囲まれている島に比べたらそのアイデンティティは中途半端かもしれません。

一方で、「半島」に定義づけがなく中途半端なことをポジティブにとらえるならば、社会の中でどのように「半島」を意味づけしていくのかによって、「半島」をめぐる政策、言説、社会経済活動などは大きく変わっていくのではないかと期待しています。

産業の中軸は、製造業からIT産業へと変移し、人や物が動かなくてもインターネットで地球全体がつながる時代になりました。また、人と社会のつながり方も縦横無尽に拡げていくことができる時代になりました。土地と物と人が分離され、産業基盤や交通基盤に依存せず、どこに住んでいるかに関わらず、誰もが新しいチャレンジができる時代を迎えています。

半島は、歴史の変遷の中で、しばし影を薄くしていました。

新しい時代に向かっていく中で、あらためて、あるいは初めましての気持ちで、私たちの暮らしと社会の中での「半島」の価値、あり方を一緒に考えていただけるとうれしく思います。歴史、文化、暮らし、自然、風土・地形、生態系、交流と伝播…などなど、さまざまな観点、切り口から、半島のことを語りあい、深めていく輪がひろがりますように。